マイケルムーアのシッコ見た。感想

今更ながらマイケルムーアのシッコを見ました。

 

選挙って掴み所のないものだと思って一回も行ったことがなかったのですが、

この映画を観てカルチャーショックを受けました。

 

自分の欲望を叶えるてくれる人に投票すれば良い。

いなければ自分で立候補すればいい。

選挙で推した政治家が嫌いになったらデモで訴えればいい。

そんな風にもっと単純に世の中を変えていこうとしていいのだと思います。

やる気になるために必要な思い込み。

今、菅野寛さんの経営の失敗学という本を読んでいます。

成功するビジネスの裏には山ほどの失敗がある。というか、ほぼ失敗ばっかりらしいです。

 

ということはビジネスや経済活動と切っても切れない人生も失敗ばっかりであっても不思議ではないと思います。

 

また、経済史の講義で共産主義が失敗した理由として、個々人や、個々の企業が利益のために自由に行動する自由を保障しなかったことを聞いた事を思い出しました。

そして、俺についてはどうだろうと。

 

それを前提として、やる気になるために必要だと思う二つの思い込み。

一つ。欲望を叶えるために自由に行動していいんだという思い込み。

二つ。行動の結果失敗しても何とかなるという思い込み。

 

以上です。

傾聴とマインドフルネス

マインドフルネスの本と傾聴の本を読んでいてつながるものがあったので書いておきます。

但し書きをしておきますと僕はマインドフルネスも傾聴も知ったばかりでほぼ実践していません。

どちらも実践ありきの概念だと思いますので、推論でものを書くとうわすべりしているおそれもあります。あしからず。

 

さて、マインドフルネスの実践者として私が参考にしている小池龍之介、という坊さんの本によりますと、マインドフルネスとはココロや体、感じたことや、感覚に意識を集中させること、のようです。

心や感覚が今、どのような状態であるかに集中することで、脳が自動的、反応的に浮かべる考えや感覚をあるがままに見つめることのできる、という営み。

その営みが、ただ存在する、ということを穏やかな感覚のともなったものにしてくれる、ということらしいのです。

傾聴においても、マインドフルネスと同じように、価値判断を挟まず、話す人の話すままを聞くことが肝のようです。

傾聴における、話すままを聞き、その話を、その人の存在をあるがままに受容すること、これはマインドフルネスのあり方と似ているな、と思ったのです。

 

傾聴の本は漫画でやさしくわかるシリーズの本を手にとりました、この本にただ傾聴する技術だけでなく、なぜ人は傾聴を求めるのか、という話題にも触れてあります。

その中で、人はいい子で居たら褒められる、というような条件付きの肯定では、いい子で居なかったらマズイ、という不安を感じてしまう。という話があります。

ほとんどの人は子供の頃から多かれ少なかれ条件付きの肯定を受けてきているので、無条件に受け入れられること、無条件に愛されることを求める気持ちがいつまでも残っているため、傾聴されることを快感と感じるということらしいのです。

話し手が、聞き手にどんな話であれ、否定されずに話を集中して聴いてもらえているな、と感じるとき、受け入れられているという感覚をうける。

これがやすらぎにつながる。愛を感じる。ということらしいのです。

心や、脳が、体が自動で浮かべる感情、反応を、否定せずに、ただただ存在を受け止めることがマインドフルネスでした。

似ていませんでしょうか。

 

つまり、自己を観察し、無条件で受け入れるマインドフルネスが、自己の存在への愛なのだとしたら、それと同じ観察と受容を他社に向けるのが傾聴であり他者の存在への愛であると思ったのです。

 

もしそうであるなら、全人類がただ自分を、そして他者をただあるがままに受け入れることが出来たなら、どんなに穏やかに過ごせるだろうと思いました。

しかし、傾聴もマインドフルネスも、放っておいたら自然とできるわけではありません。

マインドフルネスは禅の修行が由来であり、傾聴もできれば立派にカウンセラーになれるというような、かなりの程度の修練が必要とされる技術のようですね。

楽なことに流されがちな私を含む人類全員ができる、というのは夢物語でしょうか。

クソみたいな感情の出口、創作のすすめ。

今って、いいね。とかハートマークとかで認めてもらうSNSが盛んですよね。

はてなもなんか星マークつけてグッドだとか言うのを伝えるようになってますしね。

私のこのブログだとかツイッターもやり始めて見たんですが、基本的にネガティブな事しか言ってないし、前向きな言葉でも共感を得るような事ってあんまり吐けないわけです。もともとそういう人間なので。

で、当然星マークもいいねもハートマークもつかないわけですよ。

もちろん誰かに伝えたくて書いてるので虚しいですよ。なんかね。

基本的にネガティブな言葉って皆嫌いなんでしょう。たぶんね。

 

そんな私と同じようにクソみたいな感情しか持たない人間の唯一の出口が創作だと思うんです。

 

クソだ!という言葉をただつらつらとブログに書いたところで全スルーされますが、クソだという気持ちを込めた歌、絵、詩など、は作る価値あると思います。

なんだったら私は辛い気持ちとか嫌だとかそういう負の感情から生まれた創作の方が良いものが多いと思っています。

カフカの変身だって、あれはたぶんおっさんの無力感の結晶ですよ。

ツイッターのつぶやきにしたらもう無理、仕事無理。とかお家帰りたい。とか

お布団にかえしてくださいとか?よくわからんけどそんな感じですよ。

表現の形式によってはあなたのクソみたいな気持ちも立派に作品になるはずです。

私もそんな気持ちで曲を作っています。

誰に褒められも今のところしていないけれど、クソみたいな気持ちがクソみたいな気持ちで終わらずに作品になるのです。

誰に認めてもらえなくとも、悪い気はしません。

それにクソだという気持ちも練りに練れば伝わると思ってます私は。

ですから、

全国のクソみたいな気持ちを溜め込んでいる同士達よ!創作せよ!

みたいな。

創作のすすめでした。

やる気の差。

御機嫌よう。私バンドやってます。

バンドに限らず、同じことに取り組んでいる人とのモチベーションの差を感じる事ってあると思います。

そこですぐにこいつはやる気が無くて困る。

ひとつビシッと言ってやるかという考えになりがちです。私は。

ですが、こういった場合、現時点での”やる気”ではどうにもならない生活の上の優先順位とか、理想の違いとかがモチベーションの差になっている場合が多いですよね。最近気づきました。

私はプロになる気は無いので、音楽一本でやっていくわけではないけれど、他の私情よりはできる限り音楽を優先していきたい。

ドラムのA君もプロになる気は無い。けれど、家族が一番大事。音楽はその後かな。

ベースのB君は学生で就きたい仕事があってその為に努力してる。ベースは嫌いじゃないし、暇な時間は付き合ってもいいよ。ただし金は無いから。

みたいなね。

この例だとプロになる気が無いところしか一致してませんよね。

 

生活のスタイルの違いから生み出されるモチベーションの差って、やる気が無いとか言ったところでどうにもならない問題なんですよね。

おっさんになりつつある今特に”やる気”ではどうにもならない人とのモチベーションの差をひしひしと感じつつあります。

 

だからメンバーを変える、とかこのメンバーでうまくやって行けるやり方を見つける、とかは人それぞれだと思いますけど、難しいですね…。

以上です。

ライブハウスでの振る舞い

ライブハウスでの振る舞いってどうしたらいいんですかね。

盛り上がってもうるさいって言われるし、ぶつかるし手拍子とか一緒に歌ったりとかじっくり見たい人の邪魔になるじゃないですか。

かといって黙ってじーっと見ててもノリ悪いなーって感じ出されますし、じっとしててもつまらないです。

どうしたらいいんですかね?

空気読んで周りと同じ行動してりゃいいのかもしれませんが、そんな事しても正直楽しくないですよね。

空気読んだ結果が正解って気もしませんし。

 

そんなこんなでいい思い出と悪い思い出が半々くらいでアベレージ低め、足が遠のいてます。ライブハウス。

 

演者として出たい気持ちはありますが、聞く分には家で一人で聞いてる方がいいなーって感じです。それだけです。

生きる意味も考えるのやめました。

私は遅くとも何十年後かには死にますし、何億年後か知りませんが、太陽は爆発して、宇宙はエネルギーを失って結局生き物は皆死ぬ、と何かで知ったような気がします。

今楽しんでいてもいつか死ぬし、作品や名声や遺産を残したところで、いつか消滅します。

では何の意味があって生きているのでしょう。

どのような意味を人生に見出し、生き方を決めて行けば良いのでしょう。

 

私はそもそも意味、というものは人間が生きている中で発生させるものだと考えています。

トルストイだったかの本で、最後は神に意味を見出す話がありました。

ですが私は、元から世界に備わっている意味だとか、神が与えてくれる意味だとかは信じていません。

このような考え方からすると、生きていく、生きている意味は不確かにならざるを得ません。

私の人生、私の考えは日々移り変わるので、私の人生から生まれる意味も日々移り変わるものだからです。

仮に私が楽しむ事が生きる意味だ、と考えれば、そもそもこの世の中では貧乏人の私は人生のほとんどを労働をしてしか生きていけないわけで、私は労働が嫌いです。

つまり現時点で、私の人生のほとんどが楽しくない、意味がないことになってしまいます。

 

ではまた他人のために尽くす事が、私の人生の意味だ、としても他人も皆死ぬのにどうして尽くす意味があるのだろう、と思ってしまいます。

 

金を儲けることは?儲けてどうする?

豪遊して何の意味が?死ぬのに私の楽しみには何の意味が?

またもし儲けられなかったら全て意味がないということか?

 

人に好かれることは?好かれれば生きている意味があるのか?いずれ忘れられるのに?また好かれられなければ、全て意味がないのか?

 

このように考えてみると絶対の意味を提供してくれる源泉などないのではないかと思うのです。

 

とすれば日向ぼっこをしたり、夕焼けを見たり、友人と楽器を演奏したり、家族と幸せなやりとりができたり、そのような私にとって否定しようのない良いことを意味の源泉としよう。

だとしても、そういった否定しようのない幸せな時間はたまたまやってくることが多く、必ずしも何かをすると決めてやれば絶対に手に入るものではありません。

 

絶対の意味を考える人生をしばらく続けましたが、これだ!と思うものを見つけても、しばらくすれば、自分の考えが変わり、これは絶対の意味ではない事に気づきます。

このような絶対の意味を求める考えでは、物事をある程度持続して行い続ける事が出来ず、何もなさずに死ぬ、と恐怖を覚えました。

 

今のところ結論としては、ある意味を決めてしまえば、その意味のために生きられない時間が無意味だ、ということになってしまうし、達成できなければ全てが無意味になってしまう。

それに、この世にはそれほど人生を賭けてやりたい事がわたしにはありません。

 

意味をかんがえれば、全てが不確かで、全てが成す必要のない事に思えて、何もできません。

もう少しゆるく、絶対の意味などなくとも、なーんとなく良いとおもうからやってみよう、という方がすこぶる生きやすく楽しいです。

そして生きているだけで、なぜか生きていたいと思うのだから、理屈で考える意味は必要ない。

つまり絶対の意味を考えることはやめました。

よわ〜く、ゆる〜い意味でわたしには充分です。

そうでないと私は生きていけませんでした。

私の今を肯定する為にむしろ、どこかに絶対の意味を追い求めることをしてはいけないのだと思いました。

絶対の意味に見合わない自分は生きている意味がないように思えるからです。

 

何となく道草を楽しむように生きて、あー疲れたなーと死ねばいいと思うようになりました。

人間の理性の発達を進歩だとするなら私は退化します。

バカになって、幸せを感じて、いつか死にます。