生きる意味も考えるのやめました。

私は遅くとも何十年後かには死にますし、何億年後か知りませんが、太陽は爆発して、宇宙はエネルギーを失って結局生き物は皆死ぬ、と何かで知ったような気がします。

今楽しんでいてもいつか死ぬし、作品や名声や遺産を残したところで、いつか消滅します。

では何の意味があって生きているのでしょう。

どのような意味を人生に見出し、生き方を決めて行けば良いのでしょう。

 

私はそもそも意味、というものは人間が生きている中で発生させるものだと考えています。

トルストイだったかの本で、最後は神に意味を見出す話がありました。

ですが私は、元から世界に備わっている意味だとか、神が与えてくれる意味だとかは信じていません。

このような考え方からすると、生きていく、生きている意味は不確かにならざるを得ません。

私の人生、私の考えは日々移り変わるので、私の人生から生まれる意味も日々移り変わるものだからです。

仮に私が楽しむ事が生きる意味だ、と考えれば、そもそもこの世の中では貧乏人の私は人生のほとんどを労働をしてしか生きていけないわけで、私は労働が嫌いです。

つまり現時点で、私の人生のほとんどが楽しくない、意味がないことになってしまいます。

 

ではまた他人のために尽くす事が、私の人生の意味だ、としても他人も皆死ぬのにどうして尽くす意味があるのだろう、と思ってしまいます。

 

金を儲けることは?儲けてどうする?

豪遊して何の意味が?死ぬのに私の楽しみには何の意味が?

またもし儲けられなかったら全て意味がないということか?

 

人に好かれることは?好かれれば生きている意味があるのか?いずれ忘れられるのに?また好かれられなければ、全て意味がないのか?

 

このように考えてみると絶対の意味を提供してくれる源泉などないのではないかと思うのです。

 

とすれば日向ぼっこをしたり、夕焼けを見たり、友人と楽器を演奏したり、家族と幸せなやりとりができたり、そのような私にとって否定しようのない良いことを意味の源泉としよう。

だとしても、そういった否定しようのない幸せな時間はたまたまやってくることが多く、必ずしも何かをすると決めてやれば絶対に手に入るものではありません。

 

絶対の意味を考える人生をしばらく続けましたが、これだ!と思うものを見つけても、しばらくすれば、自分の考えが変わり、これは絶対の意味ではない事に気づきます。

このような絶対の意味を求める考えでは、物事をある程度持続して行い続ける事が出来ず、何もなさずに死ぬ、と恐怖を覚えました。

 

今のところ結論としては、ある意味を決めてしまえば、その意味のために生きられない時間が無意味だ、ということになってしまうし、達成できなければ全てが無意味になってしまう。

それに、この世にはそれほど人生を賭けてやりたい事がわたしにはありません。

 

意味をかんがえれば、全てが不確かで、全てが成す必要のない事に思えて、何もできません。

もう少しゆるく、絶対の意味などなくとも、なーんとなく良いとおもうからやってみよう、という方がすこぶる生きやすく楽しいです。

そして生きているだけで、なぜか生きていたいと思うのだから、理屈で考える意味は必要ない。

つまり絶対の意味を考えることはやめました。

よわ〜く、ゆる〜い意味でわたしには充分です。

そうでないと私は生きていけませんでした。

私の今を肯定する為にむしろ、どこかに絶対の意味を追い求めることをしてはいけないのだと思いました。

絶対の意味に見合わない自分は生きている意味がないように思えるからです。

 

何となく道草を楽しむように生きて、あー疲れたなーと死ねばいいと思うようになりました。

人間の理性の発達を進歩だとするなら私は退化します。

バカになって、幸せを感じて、いつか死にます。