傾聴とマインドフルネス

マインドフルネスの本と傾聴の本を読んでいてつながるものがあったので書いておきます。

但し書きをしておきますと僕はマインドフルネスも傾聴も知ったばかりでほぼ実践していません。

どちらも実践ありきの概念だと思いますので、推論でものを書くとうわすべりしているおそれもあります。あしからず。

 

さて、マインドフルネスの実践者として私が参考にしている小池龍之介、という坊さんの本によりますと、マインドフルネスとはココロや体、感じたことや、感覚に意識を集中させること、のようです。

心や感覚が今、どのような状態であるかに集中することで、脳が自動的、反応的に浮かべる考えや感覚をあるがままに見つめることのできる、という営み。

その営みが、ただ存在する、ということを穏やかな感覚のともなったものにしてくれる、ということらしいのです。

傾聴においても、マインドフルネスと同じように、価値判断を挟まず、話す人の話すままを聞くことが肝のようです。

傾聴における、話すままを聞き、その話を、その人の存在をあるがままに受容すること、これはマインドフルネスのあり方と似ているな、と思ったのです。

 

傾聴の本は漫画でやさしくわかるシリーズの本を手にとりました、この本にただ傾聴する技術だけでなく、なぜ人は傾聴を求めるのか、という話題にも触れてあります。

その中で、人はいい子で居たら褒められる、というような条件付きの肯定では、いい子で居なかったらマズイ、という不安を感じてしまう。という話があります。

ほとんどの人は子供の頃から多かれ少なかれ条件付きの肯定を受けてきているので、無条件に受け入れられること、無条件に愛されることを求める気持ちがいつまでも残っているため、傾聴されることを快感と感じるということらしいのです。

話し手が、聞き手にどんな話であれ、否定されずに話を集中して聴いてもらえているな、と感じるとき、受け入れられているという感覚をうける。

これがやすらぎにつながる。愛を感じる。ということらしいのです。

心や、脳が、体が自動で浮かべる感情、反応を、否定せずに、ただただ存在を受け止めることがマインドフルネスでした。

似ていませんでしょうか。

 

つまり、自己を観察し、無条件で受け入れるマインドフルネスが、自己の存在への愛なのだとしたら、それと同じ観察と受容を他社に向けるのが傾聴であり他者の存在への愛であると思ったのです。

 

もしそうであるなら、全人類がただ自分を、そして他者をただあるがままに受け入れることが出来たなら、どんなに穏やかに過ごせるだろうと思いました。

しかし、傾聴もマインドフルネスも、放っておいたら自然とできるわけではありません。

マインドフルネスは禅の修行が由来であり、傾聴もできれば立派にカウンセラーになれるというような、かなりの程度の修練が必要とされる技術のようですね。

楽なことに流されがちな私を含む人類全員ができる、というのは夢物語でしょうか。

クソみたいな感情の出口、創作のすすめ。

今って、いいね。とかハートマークとかで認めてもらうSNSが盛んですよね。

はてなもなんか星マークつけてグッドだとか言うのを伝えるようになってますしね。

私のこのブログだとかツイッターもやり始めて見たんですが、基本的にネガティブな事しか言ってないし、前向きな言葉でも共感を得るような事ってあんまり吐けないわけです。もともとそういう人間なので。

で、当然星マークもいいねもハートマークもつかないわけですよ。

もちろん誰かに伝えたくて書いてるので虚しいですよ。なんかね。

基本的にネガティブな言葉って皆嫌いなんでしょう。たぶんね。

 

そんな私と同じようにクソみたいな感情しか持たない人間の唯一の出口が創作だと思うんです。

 

クソだ!という言葉をただつらつらとブログに書いたところで全スルーされますが、クソだという気持ちを込めた歌、絵、詩など、は作る価値あると思います。

なんだったら私は辛い気持ちとか嫌だとかそういう負の感情から生まれた創作の方が良いものが多いと思っています。

カフカの変身だって、あれはたぶんおっさんの無力感の結晶ですよ。

ツイッターのつぶやきにしたらもう無理、仕事無理。とかお家帰りたい。とか

お布団にかえしてくださいとか?よくわからんけどそんな感じですよ。

表現の形式によってはあなたのクソみたいな気持ちも立派に作品になるはずです。

私もそんな気持ちで曲を作っています。

誰に褒められも今のところしていないけれど、クソみたいな気持ちがクソみたいな気持ちで終わらずに作品になるのです。

誰に認めてもらえなくとも、悪い気はしません。

それにクソだという気持ちも練りに練れば伝わると思ってます私は。

ですから、

全国のクソみたいな気持ちを溜め込んでいる同士達よ!創作せよ!

みたいな。

創作のすすめでした。

やる気の差。

御機嫌よう。私バンドやってます。

バンドに限らず、同じことに取り組んでいる人とのモチベーションの差を感じる事ってあると思います。

そこですぐにこいつはやる気が無くて困る。

ひとつビシッと言ってやるかという考えになりがちです。私は。

ですが、こういった場合、現時点での”やる気”ではどうにもならない生活の上の優先順位とか、理想の違いとかがモチベーションの差になっている場合が多いですよね。最近気づきました。

私はプロになる気は無いので、音楽一本でやっていくわけではないけれど、他の私情よりはできる限り音楽を優先していきたい。

ドラムのA君もプロになる気は無い。けれど、家族が一番大事。音楽はその後かな。

ベースのB君は学生で就きたい仕事があってその為に努力してる。ベースは嫌いじゃないし、暇な時間は付き合ってもいいよ。ただし金は無いから。

みたいなね。

この例だとプロになる気が無いところしか一致してませんよね。

 

生活のスタイルの違いから生み出されるモチベーションの差って、やる気が無いとか言ったところでどうにもならない問題なんですよね。

おっさんになりつつある今特に”やる気”ではどうにもならない人とのモチベーションの差をひしひしと感じつつあります。

 

だからメンバーを変える、とかこのメンバーでうまくやって行けるやり方を見つける、とかは人それぞれだと思いますけど、難しいですね…。

以上です。

ライブハウスでの振る舞い

ライブハウスでの振る舞いってどうしたらいいんですかね。

盛り上がってもうるさいって言われるし、ぶつかるし手拍子とか一緒に歌ったりとかじっくり見たい人の邪魔になるじゃないですか。

かといって黙ってじーっと見ててもノリ悪いなーって感じ出されますし、じっとしててもつまらないです。

どうしたらいいんですかね?

空気読んで周りと同じ行動してりゃいいのかもしれませんが、そんな事しても正直楽しくないですよね。

空気読んだ結果が正解って気もしませんし。

 

そんなこんなでいい思い出と悪い思い出が半々くらいでアベレージ低め、足が遠のいてます。ライブハウス。

 

演者として出たい気持ちはありますが、聞く分には家で一人で聞いてる方がいいなーって感じです。それだけです。

生きる意味も考えるのやめました。

私は遅くとも何十年後かには死にますし、何億年後か知りませんが、太陽は爆発して、宇宙はエネルギーを失って結局生き物は皆死ぬ、と何かで知ったような気がします。

今楽しんでいてもいつか死ぬし、作品や名声や遺産を残したところで、いつか消滅します。

では何の意味があって生きているのでしょう。

どのような意味を人生に見出し、生き方を決めて行けば良いのでしょう。

 

私はそもそも意味、というものは人間が生きている中で発生させるものだと考えています。

トルストイだったかの本で、最後は神に意味を見出す話がありました。

ですが私は、元から世界に備わっている意味だとか、神が与えてくれる意味だとかは信じていません。

このような考え方からすると、生きていく、生きている意味は不確かにならざるを得ません。

私の人生、私の考えは日々移り変わるので、私の人生から生まれる意味も日々移り変わるものだからです。

仮に私が楽しむ事が生きる意味だ、と考えれば、そもそもこの世の中では貧乏人の私は人生のほとんどを労働をしてしか生きていけないわけで、私は労働が嫌いです。

つまり現時点で、私の人生のほとんどが楽しくない、意味がないことになってしまいます。

 

ではまた他人のために尽くす事が、私の人生の意味だ、としても他人も皆死ぬのにどうして尽くす意味があるのだろう、と思ってしまいます。

 

金を儲けることは?儲けてどうする?

豪遊して何の意味が?死ぬのに私の楽しみには何の意味が?

またもし儲けられなかったら全て意味がないということか?

 

人に好かれることは?好かれれば生きている意味があるのか?いずれ忘れられるのに?また好かれられなければ、全て意味がないのか?

 

このように考えてみると絶対の意味を提供してくれる源泉などないのではないかと思うのです。

 

とすれば日向ぼっこをしたり、夕焼けを見たり、友人と楽器を演奏したり、家族と幸せなやりとりができたり、そのような私にとって否定しようのない良いことを意味の源泉としよう。

だとしても、そういった否定しようのない幸せな時間はたまたまやってくることが多く、必ずしも何かをすると決めてやれば絶対に手に入るものではありません。

 

絶対の意味を考える人生をしばらく続けましたが、これだ!と思うものを見つけても、しばらくすれば、自分の考えが変わり、これは絶対の意味ではない事に気づきます。

このような絶対の意味を求める考えでは、物事をある程度持続して行い続ける事が出来ず、何もなさずに死ぬ、と恐怖を覚えました。

 

今のところ結論としては、ある意味を決めてしまえば、その意味のために生きられない時間が無意味だ、ということになってしまうし、達成できなければ全てが無意味になってしまう。

それに、この世にはそれほど人生を賭けてやりたい事がわたしにはありません。

 

意味をかんがえれば、全てが不確かで、全てが成す必要のない事に思えて、何もできません。

もう少しゆるく、絶対の意味などなくとも、なーんとなく良いとおもうからやってみよう、という方がすこぶる生きやすく楽しいです。

そして生きているだけで、なぜか生きていたいと思うのだから、理屈で考える意味は必要ない。

つまり絶対の意味を考えることはやめました。

よわ〜く、ゆる〜い意味でわたしには充分です。

そうでないと私は生きていけませんでした。

私の今を肯定する為にむしろ、どこかに絶対の意味を追い求めることをしてはいけないのだと思いました。

絶対の意味に見合わない自分は生きている意味がないように思えるからです。

 

何となく道草を楽しむように生きて、あー疲れたなーと死ねばいいと思うようになりました。

人間の理性の発達を進歩だとするなら私は退化します。

バカになって、幸せを感じて、いつか死にます。

親に感謝しろ、への反論。

親に感謝しろ、という人がいるけれど、

まずこの世界で生きる人生が楽しくて、自分が好きになれて、そこから、この世界に産んでくれてありがとう、こんな私に育ててくれてありがとう、という気持ちが起きるのではないのか?

まず感謝しろという人は、それでは感謝の気持ちがどこから生まれるのか考えていないのか。

考えれば自ずと幸せが先で感謝は後に来ることがわかると思うのだが。

賢い僕、さよなら。

中学生の頃、周りの人は何一つ悩みなどなく、楽しそうに生きているように見え、僕はといえば、悩みばかりで人生が苦しく日々死にたいと思っており、何故か悩みのある事が賢いことの証であり、バカになれたら人生楽だろうなぁ、と思っていました。

考えて考えて考え抜いて生きるのが人間らしいことだと思っていました。

たしかに考えて考え抜いた結果として、すべきでないことや、不愉快な未来は沢山考えつきました。

他人に迷惑をかけるべきでない、環境を汚さないように、無駄を出すべきでない、人を不快にさせないように驕ったりすべきでない、やりたくもない無駄な事をやるべきでない、こんな出来損ないは子供を作るべきでない、上手くいかないなら何もやるべきでない。

考えに考えて考え抜いた結果僕の人生はクソです。

やりたい仕事はない。この先何十年とやりたくもないことに人生の大半を費やしてろくな事も為せず死ぬのだ。目先の事を思ってもやりたくもないアルバイトをし会いたくもない人に会い、嫌われる事に怯え、行きたくもないところに行く事を思うと怖気が走って家から出られません。

最低限生きるのに精一杯で、何か他人に対して残せるものなどありません。

作ったものは誰にも見向きもされない汚いもので、誰からも好かれず、好きな人と一緒にいられる自由もなく、たぶん病気になって、ひとり苦しんで死んで行きます。

環境への負荷を考えれば一刻も早く死んだ方がいいでしょう。

 

なので、考えるのをしばらくやめようと思っています。

中学生の頃の僕は馬鹿になったと言うでしょうが、考えれば考えるほど僕の人生はどん詰まりです。

だからやめます。

実際に考えるのを辞めてみるとすこぶる楽です。

自分の未来も考えない。人の気持ちも考えない。やりたくないとか、やりたいとか考えない。出来たらラッキー、出来なくても考えない。恥ずかしいとか、嫌われたかもとか考えない。寂しいとか虚しいとか考えない。金がないとか、考えない。地球環境がどうとか、政府がどうとか考えない。誰かが結婚したけど、僕は出来ないんだ、人ともろくに話せない出来損ないだとか、考えない。

楽です。

確かに馬鹿になったんだと思いますが、賢い自分のままではこの世でやるべきことはバカバカしすぎてとてもじゃないですが、やれません。

馬鹿になってしまえばやるべきならやる、そうでないならやらなければいい。

出来なくても考えない。出来たらラッキー。

無駄な力が抜けて、空が綺麗だなーとか、眠いなーとかちっぽけなことが心地よくて、幸せです。

ただ生きるだけで幸せだってのはこんな気分なんでしょう。

もう無理だと思っていましたが、馬鹿になればまだまだ生きていけるような気がします。

賢い僕は恥や、規則や、過去や、プライドと共に死んでいかざるを得ません。

賢い僕よ、お世話になりました。

疲れましたね。ちょっと休んでください。