フリクリ オルタナ 見てきた

  最近私のアトピー性皮膚炎の原因が食べ過ぎだ、というとこが様々な試行錯誤、ネットサーフィン、読書、そしてセルフ人体実験の結果判明いたしました。

私は食べてもなかなか太らなかったのでダイエットとは無縁と考えておりましたが、食事の量に無頓着で、思っていたよりずっと大食しており、やはりアトピーという形で体に異常が出ていたのですね。

 そこで、少食を心がけようと思っているのですが、食べまい食べまいとするほど食べてしまう、という行動を取ってしまい、今までそんなこと思ったことも無かったのですが、私の食に対する精神的な依存が意外にも根深いものであったことを悟り、少々戸惑っております。

 

 そこで短期決戦で大食を治そうとしたのですが、世間でダイエットダイエットといつまでも騒がれているように食を細くするのはとても難しいですね。

 私もこれを矯正するために多少どっしりと構えて、食欲と長期戦をする覚悟を決めておる次第です。

 

 

 ところで、フリクリという20年弱前のアニメを知ってますか?

 だいぶ前に見てほぼ覚えていない私の印象では

 

●ビジュアルはいい

  曲はかっこいい

  しかし意味わからんアニメ

 

なのですが、

 そのアニメと同じ名前を冠したアニメが今劇場公開されているとピロウズファンより情報が流れてきたので、見てきました。

 ということで、前振りとは全く関係のないフリクリ オルタナの感想です。

 

 先ほども言いましたが、正直言いますと、前作はハイブリッドレインボウという曲とビジュアルがかっこいいだけの意味不明アニメだと思っていました。

 メインキャラは全く無軌道に飛び回っているようで、ドカンドカンアニメの世界をぶっ壊しまくるので爽快ではありましたが、私の心に深く残るようなものはありませんでした。

 私は意味のとりづらい前衛芸術?のようなものは嫌いでして、芸術なんてものはメロドラマ的で感情が揺さぶられなければ意味がないと考えているたちでありまして、その点前作のフリクリはまぁ気にはなるけど何回見てもよくわからないので頭が勝手にぽいしてしまうアニメでした。

 

 しかし、今作フリクリ オルタナは心にブッ刺さっさるわかりやすいテーマがあるように見受けられたので質的に別物と言って良いでしょう。

 

 印象をロックのジャンルに例えるなら、前作は何者も否定し、何者にも縛られないことで無限や自由へと進んでいこうとするパンク、グランジオルタナであり、むしろ今作フリクリ オルタナは過去や、愛や、友情なんかを価値基盤としている、ポップやフォーク、みたいな感じですかね。すみません、自分でも何言ってるかよくわからないです。

 

 ま、とにかく何十年も前のアニメの内容を覚えている前作のフリクリファンは楽しめなかったと思いますが、頭スッカラカン状態で見に行った私は一晩たってもフリクリ オルタナが心に刺さったまま…。

 まぁつまり面白かったよってことです。

 

 上映開始時点では前作同様よくわかんねぇアニメであり、つまんねぇパロディや前作ファンへのサービスシーンが目立ち、糞食らえだと思っていたのですが、次第にエヴァじみたメロドラマが始まり、エヴァじみた心地よい消化不良のラストで終わります。って全部パロディじゃねぇか。

 

 いや、しかしながら今作のテーマは時の流れにぶっ壊され、離れて行く距離や、クソみてぇな社会や、しだいに失われて行く絆に汚染され、過ぎ去って行く、青春、を繋ぎとめたい、という過去に執着しまくって生きている私としては何度見ても胸を締め付けられる最良のテーマなのです。

 

 この点過去にも愛にも友情にも縛られず全てをぶっ飛ばして行くイメージの前作のオルタナティブにはなっていますね。

 

 今作は例えるならゲンドウ視点のエヴァであり、 世知辛い現実や、止めようのない時の流れによって失われて行く絆を超現実的な力によって蘇らせようという試みを描き、それが、歪な形で実現するという、後味悪いけど、何故だか胸を掴んで離さない素晴らしい胸糞アニメなのです。

 

 ま、纏めますと、フリクリ オルタナはポップな公式ビジュアルやキャッチフレーズの

      走れ、出来るだけテキトーに

という表看板と真反対の言うなれば

     止まれ、チョー本気だすから。

というストーリーでした。

 破綻の見えている絆をつなぎとめる、というような、ぐちょぐちょしたストーリー、エヴァのメロドラマ的な部分が大好きでたまらないという人は是非とも見に行かれると良いと思います。

 

 ま、今作は二部構成で10月ごろにフリクリ プログレ、が公開されるので、それを見ると印象全く変わるかもしれませんけどね。

とりあえず以上でした。バイバイ。

わかりあおうという気がない人が多すぎる。

 わかりあおうとするのは大変に労力のいることですし、意見を戦わせれば感情がエスカレートし、揉め事になることもあるので、誰とでもとことんまで話すのが良いとは思いません。

 しかし本当はとことんまで話し合うべき大切な人や親しい人とも意見が食い違ったらなあなあにしたり、怒ることで、相手の意見を聞いてみるもしくは自分の意見を言うことをやめてしまっていませんか?

 相手と意見が食い違ったら話をストップさせる人が多すぎます。

 他人とととことんまで話し合ってみると、意見が食い違った時になぜ意見が食い違うかということが、わかります。

 結局理由は経験からくる信念だったり、頑固な思い込みだったりして、変えようのないことが食い違いの原因のことが多いですが、そこまでわからなければ相手の立場が理解して付き合っていくことが出来ないのではないですか?

 

9月10日追記

 少し考えが変わりました。

 わかりあおうとしても永久に分かり合えないとわかったとき、ずっと手を離さないために、ずっと喧嘩し続ける、ということでしか一緒にいられない人がいて、それも愛の一つの形だと思うようになりました。

店員の態度。

 コンビニでアルバイトしています。

 皆さんどこかの店であの店員はクソだな、と思ったことがあると思いますが、そんな時は店員も客をクソだと思ってることが多いです。

 客もコンビニ店員と話などしたくもないのかイヤホンつけっぱなしの人が多いですが、店員も行きたくもないところでやりたくもないことをやらされるのに、最低賃金スレスレのクソ安い時給で拘束されているので、基本的にモチベーションが低い状態で接客しています。

 どっちも決まり切った楽しみのない会話なんてしたくないんですね。

 普段のコミュニケーションでは当たり前のことだと皆さん感じていると思いますが、自分の態度は相手の態度に引きずられます。

 客と店員だからってそれは変わりません。

万引き家族。見た?

 まず始めに。

 ネタバレはしてますが、見てないとわからない感じでしか書けません。見ててもわからなかったらわたしの文章が下手なんですね。悪しからず。

 

17時にバイトが終わり、俺は気になっていた映画、万引き家族を見るために映画館へとダッシュした。

 ダッシュの甲斐あり17時半開始の上映には余裕で間に合ったが見たくもない予告編を長々と見る羽目になり、走ったことを後悔した。

 長い予告ののち、万引き家族が始まった。

 

 …1時間半くらいたったのだろうか、エンドロールが流れ始めて俺は本当にこれで終わりなのかと拍子抜けし、そして次第に、腹が立ってきた。

 クソみてぇな結末で締めくくりにしやがったからだ。

 俺は怒りとともに早足でグングン家へと向かった。そして考えた。

 この映画について。なぜクソエンドで締めくくられたのか。

 

 俺が普通物語に期待しているのは、日常から夢へ、抑圧から解放へ、アンハッピーからハッピーエンドへ、というドラマの流れだ。

 で、あるからこそ、俺はムカっ腹が立った。クソみてぇなラストだったためだ。

 だが、この映画を振りかえって見たとき、物語が逆さまの構造をしているのではないかと思った。

 つまり、この映画は夢から日常へと、解放から抑圧へと、ハッピーからアンハッピーへと向かう映画だったのではないかと。

 そういう目で物語を見てみると、この映画は、貧困と血縁や過去を超越した家族愛という夢、ハッピーから始まり、その夢が現実的、社会的な 圧力によって解体されていく過程を映したものとして捉えられる。

 

理想的なハッピーエンドの物語であるシンデレラを例にとると、姉たちに奴隷のようにこき使われる日常から王子様とのロマンスの成就に至る手段として、かぼちゃの馬車などの魔法が使われた。

 万引き家族においてその魔法とは窃盗、ゆすり、売春という、反社会的行為だった。

 この現実には認められない魔法を使って現実を超越した家族愛を成立させるが、それが次第に現実に侵され、普通の、クソみてぇな日常が残る。

 そんな映画だったんじゃないか…?

 そう考えると、いい夢を見させてくれた映画だった、ような…。

 

 みなさんはどうお感じになりました?

どこかにいる誰かの苦しみ

 この世のどこかに、私よりも苦しい人は多分います。

 幸せになるって事はその人のことを忘れるというか、放っておいて、自分だけ逃れることのような気がしています。

 ですが、私もそこそこに苦しいのです。

 この苦しみをそして私よりも辛い人の苦しみを忘れて、私の幸せだけを追求したいとも思いますが、やはり気が咎めます。

 

 幸せになるための行動が、不幸な人との共感を深めるような、幸せにしたい人の為になる、祈りのような行動が出来ればいいのですが、そんな行動って具体的には何なのでしょうか。寄付とかボランティアとかなのでしょうか。

レイプと偏見

 イジメでもレイプでも被害に合う人が悪いという考えってありますよね。

 それについて少し思うところがあったので、書いてみます。

 

 カンザス大学でWhat were you wearingという展示会が行われたそうです。

 レイプされた人のその時の服を展示する、というものらしいです。

 以下このネットでチラッと見ただけの展示を事実として扱っていきます。

 もしかしたらこの展示の製作者の情報操作にはまっているか、ネットの読み流しなので情報を読み違えているだけかもしれませんけども、そうでなければ価値のある話になると思います。

 

 展示の内容には水着やスカートなど、露出の多い服装もあるのですが、Tシャツにジーンズなど露出も少ないし色気も余り感じない服装もありました。

 個人的には露出が多い服装の人やお化粧バッチリの人にムラムラしてしまうので、そんな格好の人はレイプされても仕方ないだろう、と思っていたし、性犯罪を訴える前に、露出の少ない、地味な格好をして自衛すべきだろうと思っていたのですが、この展示が示しているのは、もしかして服装はレイプと結びついていないのではないか、ということです。

 イジメもイジメられる側に見た目や行動にイジメられる要因があるように思われるけれど、実はそれほど単純でなく、イジメられる人の属性は千差万別であることが、数多くのかつてイジメられていた人の告白によって示されてきたと思います。

 この展示が示すようにレイプされる人もそうなのではないでしょうか?

 つまりレイプされるということと露出が多く色気ムンムンである、ということにはもしかしたら関係がないのではないでしょうか?

 最近のレイプや性犯罪の被害を訴え出る人に何故か美人が多いので、正直この人なら俺だって犯したいわ、と思っていました。

 ですが、レイプが見た目とは関係無いのではないかということをこの展示は考えさせます。

 もしかしたらTシャツにジーンズでも色気ムンムンの人だったのかも知れません。

 しかし少なくとも露出がレイプと直接繋がっているわけではないのではないことには気づきます。

 これはわたしには驚きでしたし、わたしと同じく、被害者が悪いと思っている人たちも知るべきではないかと思いました。

 

 男は女に欲情するものなのだから、それを知っていて無闇に欲情させる女が悪い、という考えはとても根深いと思います。

 イスラム圏のスカーフぐるぐる巻きの格好がいつから強制されているのか知りませんが、あれもこの考えに基づくものでしょう。

 感情で批判しあっても、根深い歴史を持つ偏見を壊すことはなかなか難しいと感じます。

 この展示のように事実に基づく明確な思い込みの破壊を積み重ねることで、性犯罪者がおかしく、被害者に罪はないという共通認識を作って行った方が、被害者の世間での受け止め方をマシにするには遠回りのようで近道だと思いました。

 

 しかし見た目が関係無いとすれば、男はどうしたら性犯罪を、もしくは性犯罪への衝動をなくせるのでしょうね。

労働について

 働きたくありません。

 つまらないし、疲れるし、アルバイトなので働いた割にクソほども儲からないからです。

 

 家族に大金持ちはいません。

 生活保護高齢か障害者が主な受給対象で、働ける体の人間には支給してもらえないようです。

 ベーシックインカムも天変地異でもない限り導入されそうにありませんしね。

 

どうにも働くことからは逃れられそうもありません。 

 

 働き続けなければならないので、

 つまらない➡︎楽しい

 疲れる➡︎疲れない

 儲からない➡︎儲かる

 ということを目指してみようと思います。

 私は夢を見ている間だけモーレツに頑張れるタイプです。

 幻滅させられないことを祈ります。