フリクリとフリクリ オルタナ

 前作フリクリを見返した上でネットサーフィンして感想を漁りました。

 その上でオルタナと比較してみようと思います。

 自分の初期の感想からどんどん離れていって私が書く意味はなくなって来ましたが…。

 

 他人の記事を貼っつけるマナーがわからんのでその辺ご容赦下さい。

 ま、あんまりみてる人いないから大丈夫かな。

 

引用1

無事の記 様

http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/touch/20060613/p2

 だいぶ古い記事だけど、文章がキレキレです。

 性欲を軸にバッサリとフリクリを切ってます。ちょー切れ味いいです。

 ナオタのムラムラとそれを利用するまみみとハル子の関係が物語を進めていく論ですね。

 ナオタなんで利用されてんの?と思ってましたが、私はナオタの、男の性欲の暴力性に無自覚でしたし、これだけわかりやすく描かれていたのにナオタの行動の動機がはっきりとわかってなかったわけなので…。

 まぁそれというのも私がまみみにもハル子にも全然ムラムラしなかったからかもしれませんが…。

 ニナモリにはムラムラします。

 

そんなことはどーでもいいんですが、この性欲という観点からオルタナを考えると、ハル子には相変わらず色気によるコミュニケーション手段が最大の武器であり、女子高生とハル子とは周囲の男を通じてしかまともに接点をもてないのが浮き彫りですね。

 オルタナのハル子がイマイチ周縁的な役割しかもてていないのもこれが理由でしょうね。

 

次に

フリクリ オルタナで検索するとすぐにでてくるこちら

http://samepa.hatenablog.com/entry/2018/09/08/212456

シン 冷めたパスタとぬるいコーラさん。

名前も記事も長いね。

 私はフリクリファンでもないし、あんまり作品そのもの以外には興味ないので、オッと思った点だけ抜きます。

 

 まず、榎戸さんのあとがきとからめてでてくる大人が自由の象徴であるという観点。

 前フリクリの大人/子供のイメージを簡単にまとめると

 子供は町や、親や、学校なんかの他者に縛られているが、大人はハル子ならアトムスク、キモ親父のカモンならミニコミ誌のように好き勝手なものを追求出来る。

 という対比になっているかなってこと。

 オルタナ、では大人になることは仕事と結び付けられていて、けして自由へと繋がっていない。

 むしろ子供でいることが、愛する人のいる町や自由や友情と繋がって、肯定的に捉えられていますね。

 

 そこで二点目、この大人/子ども観に関連して、

 すごいことなんてない、当たり前のことしか起こらない、変わらないような毎日が続くけれど、その間にも季節は変わって行く。という、趣旨のセリフの捉え方が違ってくること。

 もうすでに引用どうでもよくて私の邪推たっぷりなんですが、前フリクリでは子供に属する主人公のナオタに対して、憧れの対象、自由の象徴としてのハル子が大人に属しているためにこのセリフは、日常の先に、ハル子のいる、自由な大人の世界が待っている事を示しているので、ラストシーンでは爽やかな未来を匂わせます。

 しかし、オルタナでは子供の世界こそが、自由であり、愛や友情をもたらすものである上に、ハル子も含めかっこいい大人像は誰も示していないので、このセリフは今わたしたちが一緒にいる、この当たり前の素晴らしい日々もいつか終わって、お別れなんだね。という意味になってます。

 ですからラストシーンのこのセリフからは未来を否定する気持ち悪さを感じますね。

 この気持ち悪さが好物ならいいもの見たなぁって思えるでしょう。

 

 あとはテンポとか絵とか画面の作りとか戦闘シーンとか全然違うし、ふざけまくってる分そこは前作フリクリのが楽しいんですが、どこがどう違うと上手く言えないので、言える人、もしくは言えてる記事とか、あとなんか感想や、お前間違ってんぞとかあれば、教えて下さいな。

 以上です。バイバイ。