発見と母について

 今日の発見です。

 生米を噛んでいると食べること自体にに飽きる。

 一合に満たないほどでももう食べるのは嫌だという気分になるので、食欲が止まらなくなってきている人にオススメしたいと思います。

 私は最近食べ過ぎていて太ったので、お腹が減ったら生米噛んでようと思います。

 

 ところでですが、はてなブログにはお題というのがあり、毎週更新され、その話題について書き、楽しもう、という文化があるようです。

 今週のお題はおかあさんということでした。母の日に合わせてでしょうね。

 そこで私も母について書いてみようと思ったのですが、おかあさん、というとどこか親しみのみを感じてしまい、母親にたいして持っている雑多な感情を書き表せないだろうな、と思ったので、母についてというタイトルなのですが、まぁ、とにかく書いてみようと思います。

 私は今一人で暮らしており、母の日にはきっと何もしないので、社会的にも、母に対する個人的な感情としても申し訳ないと思うのですが、やはり母に対して感謝はあまり湧いてきません。

 私は完全にではないですが、成人しているにも関わらず引きこもりであり、経済的にも、精神的にも母には大変迷惑をかけていて、世の中の子供の中でも私こそは母の日にカーネーションを送り感謝の意を示すべき人間だと思うのです。

 ですが、やはり母に対して感謝しよう、とは思えないのです。

 それは何故かと言えば、きっと私の人生がつまらないからで、成人してしばらく経ってもまだ、母が私を産んだことを根に持っているからなのだと思います。

 私の母はとりたてて毒親だ、などという人でもなく、母子家庭ではありましたが、よく働いて、私と私の弟を食うに困ることもないようにしてくれましたし、暴力や暴言などをふるわれることもなく、それなりに気を使って育ててくれたように思います。

 ですから私の母に対する感情にも親しみはないわけではないのです。

 むしろ母一人で子育てをし、収入を確保するためか、いつも忙しそうにしていて、家に帰ってきても疲れた顔をし、遅いご飯を作って、すぐに寝てしまう母に対して、はち切れんばかりの恋慕があり、それはもちろん満たされることはなかったのですが、やはり今でも親しみは感じており、決して嫌いだとか、母のせいで人生が滅茶滅茶なのだ、などとは少しも思っていません。

 ですからきっと私が母に感謝出来ないのは、私の問題であって、その問題とは私の人生がとってもとってもつまらないということなのだと思うのです。

 親に感謝するシーンとしてパッと思いつくのは卒業式や結婚式や、成人式や、スポーツ選手の勝利時のインタビューなどではないでしょうか。

 そこで子供達は、生きる喜びを胸一杯に感じ、産んでくれた母親、育ててくれた母親に感謝するのだと思います。

 ならば、私が感謝出来ないのは人生にはこういった生きる喜びが不足していていて、人生がクソつまらなくて、少しも生まれてきてよかったとは思えないからではないでしょうか。

 母は一生懸命に育てたのに私から感謝されないのは意味がわからないと思いますが、私はやはりこの人生を嫌っており、母には落ち度がないとわかっていてもやはり、心から感謝しようとは思えません。

 母の子育ての努力を無駄にしているようでなんだか悲しくなりますが、私はそう思っています。

 こんな思いもあり、私は今からがんばって、人生を好きになる努力をし、母に感謝出来る人間になる方が良いと思うのですが、私の人生の面倒くささを思うと萎えて萎えて仕方がなく、八方塞がりで、消えたいように思うのです。

 赤ん坊のように泣いて、母に抱きつきたいのですが、もう私は母より大っきくなってしまいました。