生きる意味

生きる意味って考えてみたんですが、神様も信じてませんし、他人が与えてくれるわけでもなかったので、自分自身が自分自身に与えるしかないと思ったんです。

 

自分自身で自分の人生の意味を与えようと思うと、自分の経験から引き出してくるしかないと思うのですが、自分のやって来たことにも大した価値を感じなかったし、これからやりたいことはあるにしろ、それが出来たとしても、いずれ自分が死に、太陽が爆発したり宇宙からエネルギーがなくなったりして生き物が消えれば誰かが見るという事も無いわけで、絶対的な生きる意味というものは見出せませんでした。

 

絶対的な意味はないにしろ、もっと弱めの意味ならあるはずです。

家族が死んだら悲しむからとか、楽しいことが自分にまっているから、とか、何か残せるはずだから、とか。

 

ですが、絶対ではないにしろ死んだ方がいいと思う理由もあります。

今の日本だと人間が生きてるだけで環境も汚すし、何かの命を食べて生きているから地球環境にとっては自分は死んだ方がいいし、他人から見れば何か生み出したわけでもなし、注目もされない。

自分自身も自信もなしあまり生きていて何かなせるとも思えませんし、そのうえいきるためだけにやりたくもない仕事や勉強して生きてきて、これからもこんな人生が続いていくわけです。

絶対的でなくていいなら死ぬ意味もありますね。

 

しかし怖くて死ねませんので死ぬ意味は考えても仕方ないわけです。

だとしたら生きることも選択して生きているわけではないので生きる意味があろうがなかろうが生きていくんじゃないですか!

 

あー話のそもそもの意義がわからなくなりました。終わります。

変わりたくないけど変わらないとマズイのでどうしよう

マズイんですよ。

で、人生うまく行かないで困ってる時には行動を変えないといけないんでしょう。

それはわかってます。今までの行動を続けたって上手く行かないことは経験済みですよ。

だけど今までの性格や行動はそう簡単に変えられないんです。

変化する事を恐れないで、とか言われてもね、違う言い方すると、今までの自分を捨てるけど気にしないでねって、ことじゃないですか?

そんなに簡単に捨てられます?

長いこと上手く行かなくても嫌いながらも愛そうとして来た自分ですよ?

つまるところ今の自分殺すってことじゃないですか。無理です。

だからこうしましょう。

今の自分のままで、性格も行動もほんとうの自分は変えないでよし!

嫌いなこととか嫌なこととか、無理やり好きになろうとしないでよし!

中身は同じなまんまでオッケー!

そして、スペシャルな俳優になりきるんです!

なりきって、嫌いなことでも今までの自分だったらやらないことでもなんでもバシィっとなんでもこなしてしまえばいいんですよ!

これだったら変わる必要ありませんぜ!

やった!

あなたも私も嫌いなことでもなんでもスマイルでこなすグレートな役者です。

スーパースターだ!なんだってできる!

よし!これでいきましょう!

よろしくです!

 

追記

翌日演技しようとしてみた感想

嫌いなアルバイトだったので演技して上手くやろうとしてみました。

すると本来の自分の意識を保ったままだと演技に集中できないんですね。

よって本来の自分の意識は手放して演技に集中することになりました。

結果的にぼーっとするのに近い状態になりました。

つまり本来の自分は変わっていませんが手放してしまっている状態で、ひたすらアルバイトの作業に、集中します。

すると自分らしく生きられてはいませんが、ひたすら楽でした。

死にたいとも思わないし、ここは俺の居場所じゃないとも、時給安いのにこき使われてふざけんなとも思いませんでした。ただ時が流れました。

考え抜くことが良いこと、自分らしく生きることだと思っていましたが、ぼーっと生きる事にもやりたくない事を楽にやれるというメリットがあります。

ぼーっと生きるのと考えて生きるのと両方必要かもしれません。

子供欲しいかと聞かれて

ちっちゃい子を見るたびに思うのは、なんで産んだのだろう、という事です。

私は子供いませんが、子供は可愛いし、子育ても楽しそうだ。家族が増えるのはいい気分だろうなと思います。

しかし、辛い事を経験するかもしれない人間を新たに生み出すことに抵抗を感じないのでしょうか?

大体の人はそんな事考えずに勢い作ったから産んだという事なんでしょうが、考えてみると、人ひとり生み出す事はとても喜ばしいと同時に罪深いことでもあると思うのですけども。

 

私の父は性欲のせいで出来たといい、母は子供欲しかったから産んだと言いました。

恋愛して結婚して一番幸せな時期に子供ができたからか、2人とも私がどんな風に生きるかとかどんな事を思うかとかは考えていなかったようです。

今のところ私はたまーに幸せなことはありますが、基本的には人生嫌なことばっかりだと感じています。

勉強も働くのも人と過ごすのも、人と過ごせないのも辛い。

これからもそんな感じでしょう。

自殺したくはないのですが、辛いです。

生まれる前に選べるなら生まれて来たくなかったと思います。

皆さんは違いますか?

辛い人生を送るかもしれない人間をこの世に生み出すことについて、考えてみて、それでも産みたい、作りたいという人はどうしてそう思うのでしょうか。

ゴミみたいな意見。

本当にどうでも良い話題なのですが、ずーっと頭から離れないので書き捨てておきます。

女性の破廉恥な格好やめろ、やめないならガン見するのも、痴漢するのも悪くないことにしろ、という話です。

あんなに視線を引きつける足とか胸とかを晒しておいて痴漢は犯罪とか言うのはおかしいでしょう?

札束を裸で持ち歩いておいて盗んだ奴が悪いって言うようなものじゃないですか?

まぁ盗んだ奴が悪いのは悪いんですが、札束裸で持ち歩いておけば盗まれて当然ですよね?

女性はわかってないかもしれませんが、足とか胸は札束と同じくらいには欲望をかきたてますよ。

札束見せびらかされれば貴方が盗まれないにしても、貧乏人のわたしは不愉快です。

同じように、女性の裸に飢えているわたしには、露出の多い服は正直いって不愉快です。

札束を財布にしまってさらにカバンにしまうように、肌も大事にしまっておくべきだと、私は思いますが。

死にたさを超えたものの

長い間特に理由なく死にたいと思っていました。

最近心に余裕が生まれて、どうせ死にきれないし、死ねないなら人生を楽しもうと思うようになりました。

しかし、何が楽しいのかわかりません。

単純に楽しくないから死にたかったのだと気づきました。

現実逃避はもうしたいだけしました。

アニメもゲームもタバコも酒も嫌いになりました。

逃げられない。現実はつらい。

教室は癒しを与える場所ではない。

 仲正昌樹という大学教授の書いた、学問の取り扱い説明書という本を読んでいます。

 学問的な流行の話題について大学教授が学生を相手に話してゆく内容の本です。

 少し前の本なので、もしドラとか、超訳ニーチェとか廃れた流行が話題になっています。

 まだはじめしか読んでません。

 そのはじめにサンデルの白熱教室が話題になるのですが、そのなかでこんなくだりがあります。

「学生

 でも、NHKで放送された講義の後のサンデル先生との座談会で、東大のさる偉い先生もおっしゃっていましたが、授業中、手を挙げるなんて結構勇気要りますよ。

 教授

 勇気を先生からもらうんですか?まるで、カウンセリングとか癒しですね。癒しの教室なんて意外といいかもしれない(笑)。最近は、大学生での勉強に出だしでつまずいたり、人間関係で悩んだりして、やる気がなくなっている子向きのリメディアル(治療)教育とか流行っているからいいかもしれない(笑)。みんなで仲良く教室でおしゃべりして、癒されたいの?キモイなあ。」

 以上、引用でした。わかりやすくするために学生、教授という話し手の表記は私が付け加えました。

 教授の口が悪いですが、内容としては、教室は学問的な話のなされる場所で、個人的な感情をどうこうする場所ではないですよ、という、文脈だと思います。

 まぁ、当然といえば当然ですね。

 しかし、数年前の私はここがわかっていなかった。

 カウンセリングでもリメディアル教育でもなく、まさしく教室に癒しを求めにいっていた。

 そのため大変に恥ずかしい思いをし、また人に迷惑をかけました。その話をしようと思います。

 

 私は大学入学時ごろから生来の悩み症が爆発しておりました。

 どうやって生きていったらいいのか、人生に答えはあるのか、いや限られた分野だけでもいい、確かなことが知りたい、どうやってものを考えていいのかすらわからない。

 という状態です。

 大学では文系に進学しました。

 希望を抱いていました、学問が私の道しるべになってくれるのではないか、何か人生を満たしてくれるものが見つかるのではないか、と。

 しかしまぁ、大学生活はそんな理想郷ではありませんでした。

 私は悩みました。

 かような悩みがあったせいか、体調が悪かったせいか、大学には通えなくなりつつありました。

 友達は少なくなってゆき、家族とは話があわなくなってゆき、私は癒されたくて癒されたくてたまりませんでした。

 そんな中でしたが、おり悪く、ゼミがはじまっており、教授と話のできる機会が結構ありました。

 私はほぼ引きこもりで、話し相手がおらず、人と話したいという欲求が爆発していました。

 教授に惹かれて入ったゼミでしたので、教授への憧れがありました。

 また学問が私に考える足場を与えてくれる、救ってくれるのではないかという希望をまだもっておりました。

 そして私の救われたい欲求からたくさん話しました。

 しかしそこは学問の場です。当然ながら話は噛み合わず、私は救われず、頭がおかしくなっており勉強どころではありませんでしたので、結局勉強はわからないまま。

 わからない劣等感から余計に頭をおかしくして、教授に迷惑をかけ、ゼミを辞めました。

 

 つまるところ、先生は癒してくれる人物ではない、教室は悩みを解決する場所でもなければ、人生を救ってくれる場所でもない。

 みんな勉強しに来ているのです。

 先生は金をもらって学問を探求している、学生には学問の先達として教える立場にあるただの職業人なのです。

 履き違えた私は恥をかきました。

 

 数年経ったいまでも私は感情と行動や、話の内容の切り離し方がいまいちわかりません。話すか、黙るかしかできません。

 きっとこれから、ビジネスや学問の場に居合わせることがあっても私は感情むき出しでしか、話すことができないでしょう。

 ですが、少なくとも、相手は私の感情に付き合う気は微塵もないだろう、ここはそのような場所ではないのだろう、という想定はできるようになりました。

 少し進歩したかなと思います。

とりあえずこの話は以上です。

 

 自分の悩みや人生についてですが、答えは結局自分で考えるしかないかなと思うようになり、人や、学問に答えを求めたりする事はなくなってきました。

終わりです。さようなら。

クソ大学生日記

大学へ足が向かず、アルバイトへしか通えなくなってしまったクソ大学生から脱するために後期授業の始まった大学へ行った。

だが、このような状態の人間がいきなり全力で講義を受ければ途中で嫌気がさし、全く大学へ通えなくなってしまう事は前期で経験済みだ。

そこで今日は授業の行われている講義室で我が家のようにくつろぐことを実践した。

この行為は大学への根深い忌避感を減らすことで、大学へ継続的に通うことを目的とした、卒業への道の確かな一歩なのだ。

まず、講義室へ入室。

講義が始まるには時間がある。

来てはみたもののとにかく眠いので寝ていた。

気づくとそばにプリントが置いてあり、隣のガリガリの青年ありがとう、教師が喋っている。

しばらく真面目に話を聞こうとしたが、気分が悪くなって来たために断念。

スマホをいじった。

教師のモチベーションを削ぐ気はないので机の下でだ。思いやりだね。

現実でもネットでも友人の少ない私のスマホはもっぱらゲームにしか使われない。スマホのゲームはプレイ時間が課金アイテムで制限されているのがうっとおしい。金のない私がどハマりできない。

昔ハマったモンスターファームがやりたいのだが、プレステはもう無いし、プレステは授業中に机の下では出来ない。

スマホに移植してくれないかな。

またしばらく聞いていたが、この教師おんなじ事を何べんもいっているな。

話のテンポが悪すぎる。

かといってテンポが速すぎれば頭の悪い私にはわからないのだから本来ちょうど良いはずなのだが、無性にイライラする。

イライラは体にも心にも良くないよね。

本を読もう。

五味太郎と言う人の絵とエッセイの本。

大した話はないがとっても落ち着く語り口調の小気味良い文章。

俺も何か書きたくなった。

という事です。はてなありがとう😊