万引き家族。見た?

 まず始めに。

 ネタバレはしてますが、見てないとわからない感じでしか書けません。見ててもわからなかったらわたしの文章が下手なんですね。悪しからず。

 

17時にバイトが終わり、俺は気になっていた映画、万引き家族を見るために映画館へとダッシュした。

 ダッシュの甲斐あり17時半開始の上映には余裕で間に合ったが見たくもない予告編を長々と見る羽目になり、走ったことを後悔した。

 長い予告ののち、万引き家族が始まった。

 

 …1時間半くらいたったのだろうか、エンドロールが流れ始めて俺は本当にこれで終わりなのかと拍子抜けし、そして次第に、腹が立ってきた。

 クソみてぇな結末で締めくくりにしやがったからだ。

 俺は怒りとともに早足でグングン家へと向かった。そして考えた。

 この映画について。なぜクソエンドで締めくくられたのか。

 

 俺が普通物語に期待しているのは、日常から夢へ、抑圧から解放へ、アンハッピーからハッピーエンドへ、というドラマの流れだ。

 で、あるからこそ、俺はムカっ腹が立った。クソみてぇなラストだったためだ。

 だが、この映画を振りかえって見たとき、物語が逆さまの構造をしているのではないかと思った。

 つまり、この映画は夢から日常へと、解放から抑圧へと、ハッピーからアンハッピーへと向かう映画だったのではないかと。

 そういう目で物語を見てみると、この映画は、貧困と血縁や過去を超越した家族愛という夢、ハッピーから始まり、その夢が現実的、社会的な 圧力によって解体されていく過程を映したものとして捉えられる。

 

理想的なハッピーエンドの物語であるシンデレラを例にとると、姉たちに奴隷のようにこき使われる日常から王子様とのロマンスの成就に至る手段として、かぼちゃの馬車などの魔法が使われた。

 万引き家族においてその魔法とは窃盗、ゆすり、売春という、反社会的行為だった。

 この現実には認められない魔法を使って現実を超越した家族愛を成立させるが、それが次第に現実に侵され、普通の、クソみてぇな日常が残る。

 そんな映画だったんじゃないか…?

 そう考えると、いい夢を見させてくれた映画だった、ような…。

 

 みなさんはどうお感じになりました?

どこかにいる誰かの苦しみ

 この世のどこかに、私よりも苦しい人は多分います。

 幸せになるって事はその人のことを忘れるというか、放っておいて、自分だけ逃れることのような気がしています。

 ですが、私もそこそこに苦しいのです。

 この苦しみをそして私よりも辛い人の苦しみを忘れて、私の幸せだけを追求したいとも思いますが、やはり気が咎めます。

 

 幸せになるための行動が、不幸な人との共感を深めるような、幸せにしたい人の為になる、祈りのような行動が出来ればいいのですが、そんな行動って具体的には何なのでしょうか。寄付とかボランティアとかなのでしょうか。

レイプと偏見

 イジメでもレイプでも被害に合う人が悪いという考えってありますよね。

 それについて少し思うところがあったので、書いてみます。

 

 カンザス大学でWhat were you wearingという展示会が行われたそうです。

 レイプされた人のその時の服を展示する、というものらしいです。

 以下このネットでチラッと見ただけの展示を事実として扱っていきます。

 もしかしたらこの展示の製作者の情報操作にはまっているか、ネットの読み流しなので情報を読み違えているだけかもしれませんけども、そうでなければ価値のある話になると思います。

 

 展示の内容には水着やスカートなど、露出の多い服装もあるのですが、Tシャツにジーンズなど露出も少ないし色気も余り感じない服装もありました。

 個人的には露出が多い服装の人やお化粧バッチリの人にムラムラしてしまうので、そんな格好の人はレイプされても仕方ないだろう、と思っていたし、性犯罪を訴える前に、露出の少ない、地味な格好をして自衛すべきだろうと思っていたのですが、この展示が示しているのは、もしかして服装はレイプと結びついていないのではないか、ということです。

 イジメもイジメられる側に見た目や行動にイジメられる要因があるように思われるけれど、実はそれほど単純でなく、イジメられる人の属性は千差万別であることが、数多くのかつてイジメられていた人の告白によって示されてきたと思います。

 この展示が示すようにレイプされる人もそうなのではないでしょうか?

 つまりレイプされるということと露出が多く色気ムンムンである、ということにはもしかしたら関係がないのではないでしょうか?

 最近のレイプや性犯罪の被害を訴え出る人に何故か美人が多いので、正直この人なら俺だって犯したいわ、と思っていました。

 ですが、レイプが見た目とは関係無いのではないかということをこの展示は考えさせます。

 もしかしたらTシャツにジーンズでも色気ムンムンの人だったのかも知れません。

 しかし少なくとも露出がレイプと直接繋がっているわけではないのではないことには気づきます。

 これはわたしには驚きでしたし、わたしと同じく、被害者が悪いと思っている人たちも知るべきではないかと思いました。

 

 男は女に欲情するものなのだから、それを知っていて無闇に欲情させる女が悪い、という考えはとても根深いと思います。

 イスラム圏のスカーフぐるぐる巻きの格好がいつから強制されているのか知りませんが、あれもこの考えに基づくものでしょう。

 感情で批判しあっても、根深い歴史を持つ偏見を壊すことはなかなか難しいと感じます。

 この展示のように事実に基づく明確な思い込みの破壊を積み重ねることで、性犯罪者がおかしく、被害者に罪はないという共通認識を作って行った方が、被害者の世間での受け止め方をマシにするには遠回りのようで近道だと思いました。

 

 しかし見た目が関係無いとすれば、男はどうしたら性犯罪を、もしくは性犯罪への衝動をなくせるのでしょうね。

労働について

 働きたくありません。

 つまらないし、疲れるし、アルバイトなので働いた割にクソほども儲からないからです。

 

 家族に大金持ちはいません。

 生活保護高齢か障害者が主な受給対象で、働ける体の人間には支給してもらえないようです。

 ベーシックインカムも天変地異でもない限り導入されそうにありませんしね。

 

どうにも働くことからは逃れられそうもありません。 

 

 働き続けなければならないので、

 つまらない➡︎楽しい

 疲れる➡︎疲れない

 儲からない➡︎儲かる

 ということを目指してみようと思います。

 私は夢を見ている間だけモーレツに頑張れるタイプです。

 幻滅させられないことを祈ります。

不幸について

 結局のところ私は不幸だ、と決めているのは心の持ちようである。という話があります。

 確かにそうだな、と私も思います。

 

どんな悪人でも罪の意識を持たないで人生を楽しむことは出来ます。

 死の前でも恐怖を感じず、楽しいことを考えるのもたぶん可能です。

 体の不調も、金がないことも、見た目のコンプレックスも、身分が低いことも、バカにされることも、気にしないで、良いことだけに目を向けていくことも出来ると思います。

 

 自分が不幸でいることはとても辛く疲れます。

 出来ることなら不幸を手放して楽になりたいと思います。

 

 しかし、不幸を捨て去ることで、見えていたものに目を覆ってしまうのではないかとも思います。

 

 ただ不幸をやめるとこを良しとしたくありません。

 私の幸福は歪んでいるようです。

他者について。

Q

私と同じ人生を生きている人はいない。

価値も違う、私の経験もしらない。

理解とは程遠い。

私が存在することで私の背負うものを消し去ってくれはしない。

誰も私の苦しみを救うことは出来ない。

この世は地獄なのか?

A

ok。確かにそうだね。

"他人"って言うくらいなんだからそんなもんだよ。

いつでもわかり合って、いつでも助け合える、なんて救いを期待しても仕方がないじゃないか。

むしろ無理解を前提とするからこそ、理解し合えるという希望が光って見えるんだろ?

そしてその希望はきっとある瞬間では実現してるんだよ。

お前の人生もそこを目指して走ってけばいいじゃないか。

悩むことと自己否定とは違うことですね。って気づきました。

 私は、あ、私って言ってますが、男ですよ。

 それで私、最近アトピーが酷いのです。

 首とかものすごい痒いんですよ。

 それで睡眠時間増やしたり、食べ物に気を使ったりしているのですが、あまり変わりませんで、やはりストレスが原因かなぁと思うようになりました。

 ですが、ほとんど引きこもってますし、誰か他人とのトラブルがある訳ではないので、ストレスといっても私の頭の中が震源地だと思うんです。

 痒くなって来た時期とか、痒くなる時間と照らし合わせて、なんとなく当たりをつけているのですが、痒い時って現在の自分の状態を肯定出来てない時のような気がするんですよね。

 それでどうしたらいいかなと思ったのです。

 私は悩むことが結構好きでして、悩んでいること自体がアイデンティティのような人間だと思っているんです。

 もしかしたらお前頭おかしいんじゃないか?と思われる方もいらっしゃるかもしれませんね。けど好きなんです。

 ですので、もし悩むのが原因で痒くなってるのだとしたら悲しいなぁと思うのです。

 それで、悩むのやめないといけないのかなぁ、いけないんだろうなぁ、と思っていたのですが気づいたんです。

 悩むことと自己の否定、肯定は別のことなんだと。

 

 そもそも、なんですが、悩みって現在の行動に全く疑念がなくて、他のことは考えなくて良い時、つまり没頭とか集中している状態の時なんですが、その時には消えているように思うのです。

 だとすると悩みは行動の否定をしている、控え目にいっても行動とは違うことを考えてるってことですよね?

 ここが自己否定と紛らわしい部分だと思うのです。

 少なくとも悩んでいる時は、今の行動に自分の全てをかけて集中するべきだと思ってない。

 それどころか今の自分の状態を否定してさえいます。

 なので、悩んでいることを自己否定と同じように思うのではないでしょうか。

 ですが、やはり自己否定と悩みとは違います。

 悩んでいて、今の状態を肯定していない事が、即座に自己否定になるわけではないです。

 例えば、今のままだと幸せではないな、幸せになるためにはどうしたらいいかな、という悩みがあったとして、悩んでいる時自分の今の状態を疑っていますね。

 これって今の自己の否定ですよね。

 けれど今の自分の状態のみを自己と捉えるのではなくて、自己をストーリーとして、時間の流れの中、変化の中を生きていく存在だとすると、今の状態の否定が自己の否定にはなりません。

 わかりやすい例だと、スポーツやっていて、このままだと負ける…!作戦を変えよう!というとき。

 このままだと負ける作戦を取っている今の自分は否定していますが、だからといってこれは自己否定ではありませんね。

 プレーヤーとしての自分は戦いの中で、変化していく存在であって、一瞬一瞬を変わるためにこうじゃないとその時の自分を否定したからといって、自己の存在を否定しているわけではないです。

 かなりこんぐらがってきた感じしますね。わかってもらえましたか?

 

 悩んでいない時は、その時出来ている行動に集中出来ているけれども、行動と違うことは頭にない。

 逆に悩んでいる時は、今と違う状態を思って、その時の行動が散漫になっている。

 悩むことは現在の行動を続けるには必要ないみたいです。

 ならば、悩むって現在の行動とは違う行動をとるために、つまり変化のためにあるのではないでしょうか。

 

私が、あなたが悩んでいても、悩んでいる自分の否定にはならないんです。

 それは今の状態からの飛躍とか、変化への志向なんです。

 というエールにしたいのですが、こじつけがましいでしょうか。